storage_memory's profile picture. 記憶とは曖昧なものであり、ときに記憶は書き換えられてしまう。だからこそ大切に扱うべきです。

記憶

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記憶とは曖昧なものであり、ときに記憶は書き換えられてしまう。だからこそ大切に扱うべきです。

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死者と対話していたが、相変わらず容赦なく死んでいた。


夢を見ている時は違和感なかったのに、目が覚めてから不快まみれだったと気づく夢を見た。夢の中で違和感を感じなかった自分自身が気持ち悪い。その気色悪い感覚自体が、現状を表す本心なのだろうと思う。


人間は変化していくものだという実感が増えるほど、他者へのまなざしが緩やかになる。〝自分はこのような人間だ〟という若い思い込みは良くも悪くも崩れ、過去と異なるパターンへの変化を経ていくほど、他者に対して〝自分とは別物だ〟と感じることは減っていくのかもしれない。


自己の外側を世界だと定義するなら、それは脱中心化されていない視野であり、鏡の囲いの中で首が絞められていく。翻り、世界の一部として自己が内包されていると認識するならば、語りは受け取られる事を乞う必要はなく、ただ世界に現象する風や雨糸のように自己から逃れうる。


自らが属している文化圏でのニッチな情報を知らない時、伝承主体なのに?とふざけて遊ぶ民俗学つっこみは楽しい。ベン図の波紋の水掛け論


自分が属している範囲の中で行われた外部者のフィールドワーク経験の語りようを見ると、その情報自体は事例として事実なのだろうが、他所について語られる情報も鵜呑みにできるものではないなと改めて実感した


幼少期のうちに親兄弟と別離したり、言葉に触れる量が少なく社会的体験が偏った生育環境であれば、獲得できる言語能力はかなり個体差がある。ヒトの子どもでも、それらが限定された状況下でも学習しコミュニケーションできる事実は、ネコだけに限らぬ希望かもしれない。


猫は人の話がわかるというエピソードを眺めていると、言葉の理解力は確かにあるが一周まわり戻ってノンバーバルコミュニケーションのよろこびなのではないか…と思うものも多い。


知っている人によく似た雰囲気の人に会うと不安になる。それが親しい付き合いをした人でも、またはマイナスな記憶ばかりの人であっても「絶対にその人ではない」という確信を持つことができない。そんなはずはないと頭では判っていたとしても警戒は解けない。


神の前に、そもそも人間が存在しない。


人間の社会性は壊滅的な嫌悪感に満ち満ちている。浅はかで愚鈍な欺瞞に安住する家畜の群が喚き立て、檻の中で畜生供が罵倒し合う。滑稽ですらない。存在に対する冒涜、人間の認識の中で最低の愚行。死ですら生温い。


言葉は虚しい。定義され限定され、指差すことは出来てもそのものでは決してない。言葉に支配されている人間の思考は虚しい。そのものでもなく、指し示すものでもなく、蓋然的解釈でしかない。親の顔色を伺う子供の様に、自らの無力さの中で震えているか、誇大妄想に取り憑かれるしかない。


世に溢れる言葉の多くは定型文の慣習的な反射反応でしかない。この習性の人間関係構築上の必要性とそれ自体の無意味さの間に苛立ちを感じる。


人間の構造からの離脱。人間としての死。生命としての生。


それでも積極的な死を望む事くらいは許されてもいいのではないか。せめてもの慰めとして。世の中で確実なものは死だけだ。死だけが私の救い。


人間は人間自身が思っているほど生きるにも死ぬにも値しない。認識というの幻想の中で朽ち果てる塵の塊。


もし全ての人の心身の健康が完璧にモニタリングされる世があるとしたら、救われる人よりも見放される人の方が多いと思う。警察や弁護士なんて当てにならないからね。


この考え方は緩衝材の一種としては有効ではあるが、黙して沈鬱に悼むべき・思考の動きが当然であるべき等、他者への考え方の押し付けという主観的欲求に由来することが自覚出来ていない場合、その欲求は自家中毒的に抑圧され続け、認知の歪みを加速させる要因としての有害性が高い。


凄惨な記事を見て軽薄な反応を繰り返す他者に対し、これはその人自身の人生の中で身につけざるを得なかった振舞いなのかもしれない…等と考えてみるようにしてきた。他者の振舞いに嫌悪感を持ってしまうのは、想像力と共感が欠如している事が原因なのだと。


2025年早く終わらないかなという気持ちが思い浮かぶ。〝という気持ちが思い浮かぶ〟という形式のよさ


自分の背景や事情を知ってもらいさえすれば適切な配慮が受けられるはず、それは当たり前の事、と思ってる人がいる。怖い。


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